AFTER-CARE
クリーニング
12月です、皆さま。もう今年もあと。
皆様、こんにちは。
小糸伸輔の店 こいとブログです。
いつもご覧いただきありがとうございます。
早いもので今年もあと数えるほどに、
みなさまはこの1年はいかがでしたでしょうか?
良い1年、そうでなかった1年
様々かとおもいます。
海の波のようにうねりのある1年。凪のように平坦な1年。
どちらがいいともありませんが、時代や世界、社会。はたまた友人、知人の影響を
受けながら過ごす事が多い為、きっと凪のような1年になる事は少ないかと思います。
人間は少なからず一人では生きていけない。
最近思うのは、山暮らしなどの田舎の暮らしはどうかな。と思う時があります。
現代は、スマホなどの電波や電気の暮らしに慣れすぎていて
これがないと生きていけない!となる
しかし本当にそうなのでしょうか?
昔の我々のご先祖さん達は、何もないところで生活してきています。
そして時代ともに発展していき、色々苦労をしてきた中で
現代の最新の暮らしができている。
昔の暮らしはどのようなものだったのか。
少し見ていこうと思います。
江戸時代が一番わかりやすいかと思うのでまずはそこから。
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・江戸時代の暮らし
・戦後の暮らし
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・江戸時代の暮らし
【食事】
→庶民
「ご飯・味噌汁・漬物」という「一汁一菜」が基本で、たくあん、梅干し、ぬか漬け、らっきょうなどの漬物が並んでいた。
→農民や町人
経済力に応じて主食に米や雑穀を取り入れ、味噌や醤油を用いたシンプルな料理が中心だった
→武士や富裕層
多様な菜料や海産物が使われ、精巧な盛り付けが施された御膳料理が供された。
基本的には米を主食とし、魚と野菜、豆腐味噌などの大豆類を多く食べていたとの事です。
また食事の回数については、江戸時代初期には一般に1日2食で、朝食は現在の時間で午前8時ごろ、夕食は午後5時ごろでしたが、江戸時代中期以降に夜食が加わり3食になったといわれています。
【服装】
江戸時代の代表的な衣類は「着物」であり、男女ともにこれを日常的に着用していました。 着物のデザインや素材は、身分、季節、行事に応じて異なりました。 そのためその色や柄で階級がわかりました。
上流階級や武士階級は、豪華で色鮮やかな着物を好む傾向がありましたが、江戸初期には華美な装いを禁じる法令も出されていました。
特に着物は、季節の変化と深く結びついており、その美しさや風情を豊かに表現していました。
町人男性は江戸時代中期になると「浴衣」が誕生し、夏場には浴衣1枚で過ごすこともありました。
【仕事】
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職人城下町では、御職人(藩に召し抱えられた職人)や町職人が手工業の仕事をしていました。御職人は切米や扶持米をもらいながら藩の御用を務めていました。
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農民人口の85%を占めており、最も多くの人々が従事していました。
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武士人口の7%を占めていました。平時には上級の者を除いて農事に従事していました。武士の生活は、現在の会社員と似たもので、朝に城や城下の役所に出勤して仕事をし、夕方には帰宅していました。暮らしぶりは、一部の大名や旗本などを除いて質素だったと言われています。武士の平時の仕事は、合戦がなくなったため多岐にわたっていました。下級の旗本や御家人は、余暇に内職をして生活費を稼いでいました。内職には、次のようなものがありました
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町人人口の5%を占めており、工業の担い手である職人と商業の担い手である商人に分かれていました。
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駕籠屋人力で人を運ぶ乗物である駕籠を担いで人々を目的地まで運ぶ仕事をしていました。
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町名主自宅に「自身番屋」と呼ばれる事務所を構え、町触れの伝達、民衆調査、訴訟の取り次ぎ、喧嘩の仲裁などを遂行していました。
このように江戸時代にあった「階級」で食事や服装、生活は大きな差が生まれていた。
ここは現代も、同じ現象が続いているかと思います。
いつの時代もこの階級はなくならないものですね。
この世に【お金】がある限りはなくならないでしょう…
富裕層がいるから助かっているのも事実ではあります。
その仕組みがうまくできていないのもありますし、我々
にはわからない、見えないことがこの世には多く隠されています。
この世を牛耳っているDSと言われる人達。話しが脱線しました。
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・戦後の暮らし
【食事】
戦後は、お米はなく、さつまいもやじゃがいも、すいとん、草殻、もち草、柏の葉、サトイモやかぼちゃなどの葉や茎まで、あらゆる食べ物を食べて生き抜きました。
また食糧援助でGHQから無償で小麦粉・大豆油・とうもろこしの粉、脱脂粉乳が援助され、パンが主食になっていった。そのような援助もあったが闇市なるもので軍隊や海外から引き揚げてきた人々が闇市で作り始めたラーメン、カレー、餃子、焼肉などが広まりました。現代でみなさんが食べている物は、闇市からみたいですね。(※所説あるとの事)
その後、今の食事に近いような(※同じではない)食事に近づいていった。
また戦後の日本では、インスタントラーメン、レトルトカレー、カニカマなどの「戦後の食品三大発明」がこの後に生まれていきました。
この時代、一番大変だった日本。
先人の方々の努力、努力と片付けてしまうのはいけないですね。生きるために尽力していった、日本を活気づける為に、日本人みんなで力をあわせて頑張った結果が今に至る。良きも悪きもあるかと思いますが、この時代の頑張りがないと今の我々はいない。まずは感謝です。
【服装】
明治10年代後半、日本は欧化政策推進に必死で取り組んでいた。不平等条約の改正を実現するためには、日本が欧米並みの文明国であることを示す必要があった為との事です。この事が服装にも影響を出してきます。各国の外交官を招待して連日にわたり舞踏会を開いたりと国を挙げての動きになっていた。しかし戦時中には「贅沢は敵だ」のスローガンなど華やかなファッションは規制されていった。
戦後は、極端な物資不足に見舞われました。そのため、更生服と呼ぶ、手持ちの洋服や着物、生地を仕立て直した服が作られました。洋裁ブームに火が付いたのも、こうした時代背景と無縁ではありません。手持ちの素材から服を作り出すしかなかったからです。
こうして日本に洋服文化が根付いていきました。今では洋服を着ることがあたり前で、その変化はわずか数十年前にあったこと、それも戦争がきっかけであったことは、知っておいてもよいのではないでしょうか。
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世界も日本も色々な「経験」を踏んでいます。
良き経験、そうでない経験。この両方をうまく取り入れまじ合わせながら向上していくことが大事だと思います。
成功例だけでは、良くない道に行く場合もある。
失敗例だけでは、成長していけない場合もある。
全ては掛け合わせと取り入れ方。思考力です。
いつの時代も【2択】な事が多い。
月と太陽
光と影
水と火
男と女
ここにはいろんな秘話が眠っている。
そんな話しを、小糸伸輔の店で話してみませんか?
着物の話しもいいですが、それ以外の話しもたまには
スタッフとしませんか?
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